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タレントマネジメントの要件 – HRMの戦略への一体化を中心に -

タレントマネジメントの要件の1つに、人財管理、人事管理、あるいはHRMを戦略的に行なう、もしくは人的資本管理の事業戦略への一体化(align)が強調される。では、戦略的人的資源管理(SHRM)とはどういうことなのか、本稿ではこの点について検討したい。なお、Lengnik-Hallら(2009)の論文(Strategic human resource management: The evolution of the field)を中心に、この論点を探っていきたい。

 Boxallら(2007)によると、HRMは3つの領域に分けられるとされた。すなわち、①ミクロなHRMの領域、②戦略的HRMの領域、③国際人事の領域、の3つである。ミクロなHRMは、個人と小集団を管理する領域を指し、採用、選抜、誘因、訓練、人材育成、業績管理、報酬などのほか、組織と従業員の声、つまり、労使関係管理を対象とする。一方、戦略的HRMは、HR戦略全体が事業部門と会社全体によって適合し、業績に及ぼす影響を測定しようとする。国際人事は、国境を越えて会社が運営される中で運営されることである。

 過去30年間のSHRMに関する文献レビューによると、SHRMという取り組みは1920年代にさかのぼる。人的資源としての労働力の概念とHRM政策に対する戦略的観点と実践は、労働経済学者や労使関係論研究者によって議論されてきた。1920年代において既に先進的な企業はHRの実務を戦略的アプローチに代表されるものへと革新していた。

 Lengnik-Hallら(2009)によると、SHRMの文献を進化論的な視点でレビューすると、7つのテーマがそこにあると指摘している。

<SHRMの7つのテーマ>

  1. コンティンジェンシーな視点と適合(fit)を説明すること
  2. ヒトを管理するという観方から戦略的貢献を創出するという観点にシフトすること
  3. HRのシステムの構成要素と構造を彫琢すること
  4. SHRMの視野を拡げること
  5. HRの推進と実行を達成すること
  6. SHRMの成果を測定すること
  7. 方法論的な課題を評価すること

個々について概観していく。今回は1つ目の課題について紹介していく。

◆コンティンジェンシーな視点と適合(fit)を説明すること

組織科学の大半で共通することだが、HR研究者は、特定の目的、状態、そして、戦略的関心がマッチしているときに、HR(人事部門)が業績を改善していくものだと認識している。したがって、SHRMの研究は、HRの活動と望まれる戦略的成果がフィットするような状況適合的な関係と方式を見つめてきた。

1980年代初頭では、Milesら(1984)が、戦略の類型化を提案し、防衛型、探索型、分析型、反応型という類型を示した。これは、HRMにコンティンジェンシー(状況適合型)のアプローチを導出することになった。

Shulerら(1987)は、異なる戦略の類型を示した。すなわち、コスト削減型、品質向上型、イノベーション型である。ここでは、従業員が戦略にフィットすることが要請されるとされた。現在では、このような立場を、SHRMの行動的な視点と呼んでいる。

Lengnik-Hallら(1988)では、人的資源が戦略に影響を及ぼし、組織の事業戦略とHR戦略とがフィットするという、もう1つのコンティンジェンシーな視点を示された。しかし、フィットすることが重要だと指摘されながらも、必ずしもそうなるわけではないこと、とりわけ移行期には顕著になることが確認された。

Bairdら(1988)では、構成要素のうち、外在的なものと内在的なものとが合同するという概念が展開された。外在的な適合とは、HRの実践とHR戦略が連動することであり、内在的な適合とは、企業自身のHR戦略がお互いにフィットすることだとされた。加えて、HRの実践と戦略は、組織自身のライフサイクルのステージによって変化していくだろうとされた。

Jacksonら(1989)では、組織的文脈の特性(産業セクターや技術革新の段階、製造技術、組織構造、企業規模、労使関係など)と、HRの実践との経験的な関係性を強調した。この論文は、組織間と組織内とでは、HRの実践が異なるということを示した。

1990年代になると、Millimanら(1991)において、戦略的国際人事管理(SIHRM)というコンテキストが展開された。そこでは、①国際人事と組織のライフサイクルのステージをフィットさせること、②多様な人的資源の機能を内的に適合させること、③人的資源に関する実践と企業の国際的・多文化的環境を適合させること、④企業の人的資源の機能を海外子会社に適合させること、などが挙げられている。加えて指摘されたことは、変化していく組織の環境に企業が効果的かつタイムリーに適合し、HRが柔軟性を発揮することだった。

Meschら(1995)は、HRのシステムが官僚組織とSHRMを比較した。Arthur(1994)によると、官僚組織モデルではHRシステムを強く統制するもので、SHRMモデルは、HRシステムにコミットするものだと対比された。

Jackson&Schuler(1995)は、組織環境という重要な構成要素を認識することでSHRMの理論に重大な貢献をした。組織環境は、内的なものと外的なものとに分けられる。内的なものとしては、技術、組織規模、ライフサイクルのステージ、事業戦略がある。外的なものとしては、法制、社会的・政治的環境、すなわち、労使関係を含む、労働市場がある。また、産業事情や国ごとの文化が含まれる。

Wrightら(1995)では、NCAAのバスケットボールのチームの例が取り上げられているが、コーチが採用重視の戦略を取ることを好むか、チームのパフォーマンスを重視することを好むかという違いがある。その成果として、双方の関係性をサポートすることがわかり、SHRMに対するコンティンジェンシー・アプローチに対する経験的な確証を多少なりとも提供した。

Delery(1998)は、初期のSHRMが水平的な適合性を重視したことを批判した。そして、SHRMでは、水平的なものだけではなく、垂直的な適合性も重視すべきだとした。ただ、その研究は、構成概念妥当性に関してクラスター分析を用いた点が不適切であり、限られた独立変数に着眼したために、ボトムラインの業績を考慮に入れることに失敗した。ただ、シナジー効果を検討しなければならないという方向性を示した。とはいえ、研究上の課題を多く残すことになった。

Kepes&Delery(2007)は、その後、研究をフォローアップし、HRシステムには4つの内的適合があるということ

を概念化した。①内部的なHRMシステムにおける垂直的適合、②内部的なHRM活動の領域における適合、③組織間のHRM活動の領域における適合、④HRM間のシステムにおける適合、である。

1990年代になって進展したことは、初期の研究を一層、戦略研究へと展開していったことである。企業が資源ベースの観点で説明されるようになった。Boxall(1998)は、人的資源の優位性が、人的資本の優位性と組織プロセスの優位性という、2つの要素から構成されると考えた。前者は、競合他社よりも優れた人材を持つことであり、後者は、競合他社よりも優れた働き方をすることを指している。

Wright&Snell(1998)は、適合性と柔軟性の概念の理解をさらに展開した。すなわち、戦略は、HRMの実践、従業員のスキル、従業員の行動という3つの生来的な概念的変数に適合しなければならないとした。また、HRMにおける人的資源の柔軟性と、実践に伴う協働における柔軟性を区別した。組織は直角的というよりも補足的な適合性と柔軟性を促進しなければならないとした。

Carberaら(1999)は、組織文化と戦略を一体化させる必要性を強調した。文化は組織の資産であり、行動を鼓舞し、意図された戦略をサポートする。しなやかな戦略的文化は、求められる行動規準を促進し、組織の価値に合った候補者を慎重に選抜する。その後は、媒介変数としての文化の重要性がSHRMのパフォーマンスのブラックボックスとして継続的な関心が向けられるようになった。

適合性と柔軟性の議論はその後も続けられ、de Pablos(2005)は、持続的な競争優位を創出するには、組織の柔軟性と適合性(内的と外的)が同時に実現され、リニューアルされていかなくてはならないとされた。

Lepakら(2004)は、組織を横断するHRシステムの相関性を探索する枠組みを示した。事業戦略が異なれば、組織の構造化の仕方も変わってくるし、異なる技術が活用されるとした。結果的に、組織は、タスクに対して異なるアプローチをするし、従業員が異なれば、それに即した理念とポリシーが要求されることになる。HRシステムの相関性は、採用や選抜、報酬の多様性に関連していく。HRの理念は、組織内のHRのポリシーを決定する。

Werbelら(2005)は、戦略的コンティンジェンシー・フレームワークが、事業戦略を支援する組織のコンピテンシーに関連して、ヒトと環境がどのように適合するかを提案するとした。ヒトと環境の適合は、SHRMにおける、水平的、垂直的な一体化に連動した一種のピンである。

最近では、HR戦略におけるダイバーシティの重大性も検討されるようになった。

(中略)

◆コンティンジェンシーとしての設定

SHRMの領域は発展し、研究も異なる設定で検討されるようになった。製造業とサービス組織は、最初の研究では区別されたし、公務員組織やNPO、私企業などでは異なるという研究が出てきた。

Batt(2000)は、重要なコンティンジェンシーとしての文脈を検討し、第1線の従業員と顧客との関係について、製造業とサービス業とでは異なると論じた。サービス業では、組織が顧客別にセグメント化されているが、HR実務でも、セグメント化した従業員に対して合わせていく必要があると指摘した。たとえば、高付加価値の顧客に対しては高業績の就労システムが必要であるとした。

(中略)

◆競合する枠組み

1990年代、3つの異なる前提条件が発生してきた。Delery&Doty(1996)は、主なSHRM理論を分類する有効なスキームを提供している。

まずユニバーサルの視点(universalistic perspective)では、HR実務が組織の業績に対して正の効果を持つとされる(例えば、Pfeffer,1998)。本質的には、この立場によると、HRの実践は特定の戦略や特定の組織の文脈に適合する必要性はないとされる。

配置的な視点(configurational perspective)では、HR実践において独自のパターンが組織の業績に正の相関にあるとされる。

それまではもっぱら、状況適合理論(contingency perspective)が論議されてきた。

Michie & Sheehan(2005)は、英国の製造業とサービス業の事例に対してユニバーサルな視点、配置的な視点、状況適合的視点の3つを比較している。状況適合的な視点に立てば、HRの理念や実践は、事業戦略に依存するものだということになる。HRに統合的なアプローチを取る企業は、イノベーターとして、あるいは、クオリティを高める者として、事業戦略を最高水準にすることに集中する。興味深いことに、外部の流動的労働力(contingent worker)は、HRの効果性を引き下げてしまう。

(中略)

Martin-Alcazarら(2005)によると、SHRMには多様な視点が意味を持つとされ、主要な理論体系についてレビューを行なっている。ユニバーサル(universalistic)、コンティンジェンシー、配置的(configurational)、文脈的(contextual)といったものが挙げられている。この場合、文脈的アプローチとは、組織の水準を向上させ、マクロな社会的枠組みの中で機能を統合するものとされている。

◆解説

HRMは早くは1920年代から戦略志向に行われていたことが確認されているが、SHRMという概念が勃興し、盛んに議論されるようになったのは1980年代以降のことである。しかし、当初はコンティンジェンシー・アプローチがもっぱらその中心を占めてきた。

90年代以降は、それに加えて、異なるアプローチが登場し、SHRMを意識することで、人的資本と組織の業績、有効性を正の相関になるように方向づける取り組みがなされるようになった。

異なるアプローチとして登場してきたものを、次の論文からの引用と翻訳によって説明しておきたい。

 台湾の研究者Changら(2005)の論文(Relationship between strategic human resource management and firm performance :A contingency perspective)に次のように述べている。

Numerous researches have debated that SHRM has been consumed with two

competing normative schools existing: universalistic and contingency.

Universalistic scholars argued that many HR practices are consistently better than comparative practices. They claimed that all organizations, regardless of size, industry, or business strategy, should adopt these so-called “best practices” school (Arthur, 1994; Delery and Doty, 1996).

However, whether SHRM should always be positively related to firm performance

remains uncertain. Contingency scholars hold different points of view and argued that

the assumptions underlying the strategy-performance link are applicable only under

high external fit conditions (Bamberger and Meshoulam, 2000), termed the “best fit”

school (Boxall and Purcell, 2000).

戦略的人的資源管理をめぐっては夥しい研究があるが、ユニバーサリスティック学派とコンティンジェンシー学派が存在してきた。

ユニバーサリスティック学派は、多くのHRへの取り組みが比較対象となる取り組みよりも一貫して優れていると主張してきた。彼らの主張は、あらゆる組織は、規模や業種、事業戦略に関わりなく、「ベストプラクティス学派」ともいうべきものである。

しかしながら、戦略的人的資源管理はいつも企業の業績に正の相関を示すのかという点は曖昧さを残してきた。コンティンジェンシー学派は異なる観点を持ち、戦略-業績の連動は外的条件への高い適合のもとでのみ可能であるという前提があると指摘された。言うなれば、「ベストフィット学派」とも呼んでいいだろう。

 また、配置的視点について、Fernando Martı´n-Alca´zar, Pedro M. Romero-Ferna´ndez and

Gonzalo Sa´nchez-Gardey(2005)に次のように説明されている。

The configurational perspective contributes to the explanation of SHRM with a useful

insight about the internal aspects of the function, by means of the analysis of the synergic

integration of the elements that build it.

In this sense, the HRM system is defined as a multidimensional set of elements that can be combined in different ways to obtain an infinite number of possible configurations.

配置的視点は、戦略的人的資源管理を内部的な諸機能に対する有効な洞察、すなわち、諸要素をシナジーが出るように統合し、それを分析することによって説明することに貢献してきた。

その意味で、HRMシステムは、可能な配置について無限にある数を得るための異なる方式を組み合わせて諸要素を多次元的にセットすることと定義される。

コンピテンシーとはそもそもどのようなものとして登場したのか? ―David C. McClellandのオリジナル論文を中心にして―

【 はじめに 】

コンピテンシー・ブームというものが少なくとも日本ではあったとみてよいでしょう。というのも、ある時期、ハイパフォーマー(ハイポテンシャル)という言葉が流行り、その特性を調べたら、他の平均的な実在者の業績/パフォーマンスも自然と上がっていくのだという、まことしやかな「仮説」が流布していました。

その場合の、「高業績者の特性」を、日本ではコンピテンシーと呼んでいました。

そもそも米国でコンピテンシーはどうなっているのでしょうか?

コンピテンシー・ブームは米国にはなかったという説もありますが、ある時期はcompetencyを冠する本や論文が出回ったという意見もあります(MIT注、米国ではcompetenciesがよく使われます。)

いずれにしても、今の日本ではコンピテンシーという言葉が一般化してしまっているか、あまり魅力ある経営用語にはなっていないようです。

 

本コラムでは、このコンピテンシーの源流に迫ってみましょう。

 

◆マクレランド教授のコンピテンシー論が最初

日本では達成動機、リーダーシップの研究で知られている、デイヴィッド・マクレランドですが、その活躍の領域は非常に広いものでした。

マクレランドは大学で教育・研究をするだけではなく、Berlu(バール―)の協力を得て、McBer(マクバー)というシンクタンクを創設・運営し、コンサルティングにも従事していました。マクバーはある時期、ヘイグループ(Hay Group)と一緒になっていて、ヘイがHay/McBerと名乗っていた時期もあります。

ヘイマクバーの識者として知られているのが、ダニエル・ゴールマンやリチャード・ボヤティズで、コンピテンシーやEQの研究が日本でも紹介されています。

マクレランドの論文は1973年に上梓された、次の論文です。Testing for Competence Rather Than for “Intelligence”というタイトルで、American Psychologistに掲載されました。日本語に訳せば、いわゆる知性よりもコンピテンシーが大事、それをどう測定するのか?、という内容になります。

 

◆マクレランドの論文

マクレランドの論文は至る所で引用、紹介されていますが、原文を読んだ人はどれだけいるのでしょうか?

というのも、この論文には、外交官の適性についての議論が主に展開されていると紹介されていることが多いのですが、果たして本当なのでしょうか? 確認してみる必要がありそうです。

マクレランドの研究自体は、スペンサー(1993)のコンピテンシー解説書(Competence at work)や、ルシアとレプシンガー(2000)の解説書(The art and science of competency modeling)にも紹介されています。

ルシアらのまえがきによると、マクレランドは、活躍する「外務情報員」について調べたところ、入職時に行われている歴史や語学の試験の結果があまり業績に相関しておらず、むしろ低い業績の人物に優秀な人が多いほどで、もっと別の要因のところに成功要因がありそうだと述べています。外交官ではなく、外務情報員だということです。

それでは、マクレランドの論文を概観していきましょう。

 

◆米国におけるテスト事情

米国におけるテストの動向は、基準のサイズ、影響力、適合性という意味で評価するなら成功してきたと言えます。知性・適性テストは、学校、大学、従業員などありとあらゆるところで実施されています。

教育テストサービス(The Educational Testing Service)という機関だけでも2000人の人を雇っており、進学適性試験を毎年、実施しています。そのテスト(入試システム)は、若者を優秀(qualified)かどうか決め、レッテルを張る(stamping)のに強烈な影響力を持っています。

つい最近まで入試の仕組みは、黒人やスパニッシュ系などのマイノリティを選抜する仕組みとして非常に効率的なものでした。それ以前、入試担当者は、テストの出来具合をさておいて、その出来具合(qualities)を取り上げてきていました。なぜ学力・適性テスト(/知能テスト)が全能なのか?

どうして学力・適性テストがこんなに有力なものとして取り扱うべきなのでしょうか?何度も出てきますが、テストとは知能テストと考えてください。

大学入試や採用で応募者を選考する際、そうしたテストを活用すれば、何が公平となるのでしょうか?

このような動向・取り組みが成功してきていることには、どのような前提条件があるのでしょうか?

テストはたくさんのアメリカ人の人生に影響を与える制度として活用され、暗黙のうちに発達してきたのです。それは注意深い実験に値します。

鍵となる論点は、いわゆる学力/知能のテスト(intelligence test)の妥当性です。妥当でないなら、テストが公平であるということにはなりません。

マクレランドが確信するところでは、考えもせず(rather unthinkingly)、皆が知能テストを妥当性で、根拠あるものと信じているということです。

 

◆マクレランドの問題意識

マクレランドの問題意識は、実際のところ、学力・知能についてのテストに妥当性があるのかについて懐疑的にレビュー(review skeptically)することにあります。

手始めに脳にダメージを受けた人が学力テストで実力を発揮できないことを確認してみましょう。

ウェヒナー(1958)は、主に、脳にダメージを受けた人が学力テストには耐えないことが明確な欠点になるということを実証するためにテストを実施した。知性の欠如がテストの結果からも明らかだったことがわかっています。

マルチメソッドやマルチレートなどの基準はここでは全く活用されていなかったです。

 

◆テストは学校での成績を予測する

ゲーム的な人々(game people)は教師が教室で要求するゲームと似たテストを要求されます。(MIT注:この場合の、gameとは、侮蔑的な意味合いを込めて、競争という意味になります。)

実際、ビネットが作った知能テストはフランスの学校で盛んに活用されました。知能テストは、学校での好成績に強く相関していました。フランスで知能テストが採用されたのは知恵遅れの児童に適切な教育を行なうためでした。そのため、全体的な学力テスト実施という動向はこのような単純な否定できない事実として継続していきました。

マクネマー(1964)は、そのことが妥当性を示唆する証拠になると考えました。4000人以上のサンプルから心理学的に作られた適性テストの手引書が有効であることを示しました。しかし、マクレランドは合点がいかない(did not enlighten me)と述べています。

では、そもそも成績(grades)とは何か?成績がいかに妥当で、何を予測するのか?調査していくと、学校の成績が他の、何か重要な行動(behavior)に関連しているのか、というと、そうでもないということが明らかになります。

 

◆学校秀才が社会で成功するのか?

1950年代の社会科学会議の調査によると、学校における好成績は人生における成功や仕事上の業績と相関しているということが示されていますが、マクレランドは、その一員だった立場から、その相関はかすかなもの(slightly)に過ぎなかったと指摘しています。

ウェスリアン大学で1940年代、マクレランドは教員をしていました。その当時、クラスのトップ8人はオールAでした。一方、クラスにはCばかりの学生もいました。

驚いたことに、1960年代になってから、彼らの、その後を見てみると、大した差がないことがわかりました。どちらの成績群にも医師や弁護士、学校教師、研究者などがいて、差がありませんでした。しかし、今の、つまり1970年代の入試システムなら、(オールCの成績で)法学部(ロースクール)や医学部(メディカルスクール)に入るなんてあり得ないことでしょう。その結果は、英国でも米国でも記録されてきており、ベルグ(1970)は、「教育と仕事-偉大なる訓練」というタイトルの本があります。

 

◆受験競争に打ち勝つ者が成功するのか?

タイラー・スミス・ギセリン(1963)の研究によれば、仕事上の業績は大学の好成績に何ら相関しないことが示されています。受験競争(games)にうまく対処する者がベストの教育を維持できるのかなぜなのか? それは、大学が学力適性テストを実施しているからです。これは言い換えれば、テニスのうまい人を選んでコーチしているようなものです。

教育の目的とは、うまくできない人をうまくいくようにすることであって、すでにできている人に教育するということではないはずとマクレランドは指摘しています。言い換えると、それは、優秀な学生をより教育し、そうでない学生にはその機会を与えないということになります。教師は課程(コース)でうまくやってくれる学生を求めますが、社会は教師が教育するに値するかどうかを決めることを許すわけではありません。まして、教師から見た業績が人生における業績/パフォーマンスにあまり関係ないということになれば、なおのことです。

 

◆知能テストは職務上の成功に関係する能力を刺激するのか?

ほとんどの心理学者はそう考えています。そのことはクロンバック(1970)にも指摘されています。しかし、そのことを裏付ける根拠はほとんどないと言っても過言ではないです。たとえば、ソーンダイクとヘーゲン(1959)は、12000のサンプルについて検討したところ、10000については相関がないということを示しています。つまり、テストは妥当ではないということです。歯科医になるには手先の器用さが大事です。入試では、そうした点に着目して最小限の適性テストを実施するということでよいはずなのです。ホランドとリチャード(1965)やエルトンとシュベル(1969)は、大学における学力テストと、芸術、科学、音楽、著述、スピーチ、演劇などにおける実際の業績(accomplishments)は何ら関係がないことを示しています。ホランドは職業と関心が関係していると示したことで有名です(MIT注)。

 

◆適正テストは実際の成功を予測するのか?

ジッセリ(1966)が50年間の調査したところ、一般知能テストは訓練可能性(trainability)と.42の相関があり(中程度、MIT注)、様々な仕事の能力(proficiency)と.23の相関(やや低い相関、MIT注)があると報告しています。しかし、この調査は10000の事例からのものであり、サンプルは小さすぎるものとして信用できないものです。

しかも、ジッセリがいうところの、職業上の成功というものの根拠や、能力をどう測ったのかという背景が明らかにされていません。

もし成功というのであれば、人事考課の評定や、給与がどうなったのかということは1つの目安になり得るでしょう。

興味深いことに、社会的に低い仕事よりもむしろ高い仕事で知能と能力が相関関係にあることということがあります。勧誘員や司法書士の場合、その能力と知能の相関はマイナス.08になっています。(絶対値に近いので、無相関と言える。MIT注)

一方、金融商品のセールスマンでは、.45という中程度の相関があります。

いずれにせよ、知能テストと職業上の成功の相関は虚構に過ぎないのです。

 

◆メンタルな能力はどう関係するのか?

ヤンセン(1972)の研究では、メンタルな能力が、平均的なIQのスコアと職務的な威信(prestige)とに関係があると考えられました。しかし、その関係は、語彙とその他の習慣・癖とが高い威信の地位に関係していると解釈されています(この場合の「メンタル」とは何を意味するのか、情緒安定性のことと考えられる、MIT注)。

ジッセリの研究は、単に仕事上の能力が知能テストに関係していると示しているわけではありません。たとえば、警察官の場合、その相関は.27に過ぎないのです(中程度の相関、MIT注)。

ヤンセンによると、メンタルな健全性は高いIQの子供によりみられると指摘されています。つまり、IQの高い子供はメンタルな安定性が概して高いという傾向がみられるということです。

 

◆人生の成果を統制する力の役割

最近まで、心理学者は、テストの妥当性を確認することに反する基準に関心を払うことに神経質になっていました。

たとえば、ターマンは、「才能(giftedness)」が人生における成功要因として測られていると感じていました。

ヤンセンは、1972年、次のように指摘しています。

IQは重要な何かを語っているのだろうか? IQはメンタルな能力に関連していることが定説で、その結果、教育上、また職業上のパフォーマンスに関係しているのではないか。

IQはその後の10年程度の学力テストを予測している。

平均的なIQの場合、平均的な収入に位置する職業と関連性があり、また、世間一般でプレステージの高い仕事とも関係性がある。(つまり、平均的なIQのほうが良いということになる。MIT注)

ただ、結論付けるのにはサンプル数が十分とは言えないとマクレランドは指摘しています。(ちなみに、ゴールマンは、平均的なIQのほうがEQが高く、社会的に成功していると指摘しています。MIT注)

 

◆いわゆるパワーエリートは学力だけではない

パワーエリート、つまり社会階層的に上位の人たちは、大学に行くというだけではなく、彼らの家系(family)に支えられています。

最近では、経歴にラテン語が要求されてきています。ラテン語を知らないと、法律も医学も、神学も学ぶことはできないです。ラテン語ができるということは上流階級であることの証にもなりますが、職業を決定する要因にもなります。

クロンバック(1970)は、テストが、ハンディキャップが何かを示してくれると結論付けていますが、もちろん、その指摘は正しいとマクレランドは言います。ただし、心理学者は何がハンディキャップになっているかを認識すべきだと主張しています。

学校で成功することを予測する妥当性とはそもそも何なのか? マクレランドは問いかけます。

学校での成功はいろいろなタイプのテストでの好成績に依存しています。しかし、実際のコンピテンシー(real competence)こそが人生における成果に関係しているのです。

 

◆では、コンピテンシーをどう測るのか?

コンピテンシーを測るということでは今のところ、何の研究もないとマクレランドは指摘します。

もしそういうものがあるとすれば、テストのスコアと職務関連のスキルが密接に関連していないといけないことになります。

例えて言えば、モーターの性能は自動車の能力を決定することになります。そのようなものがコンピテンシーということになります。

ここで、つまり、コンピテンシーを考える際、無難ではあるにしても、保守的でない基盤に基づいて、テストのサンプル基準を想定しています。

しかし、このコンピテンシーは、ヒトが何かをやろうとした際、どんなことについても有能である(competent)ことを示すものです。それは、一般的な能力要因とかなり混濁されています。(コンピテンシーは新しい概念であり、独自の測定法が開発されなくてはいけないです。MIT注)

 

◆ここから我々はどこへ行くのか?

テスト(知能テストを指す)の動向に対する批判は特段、新しいことではありません。

社会科学調査委員会は、人財(talent)の初期認定について15年前から同じような論点が指摘されてきました(マクレランド他、1958)。

テストの動向/運動は頑ななものなので、そのため、より理論的、経験的な障害があり、今ではインパクト/影響力が小さくなってしまっています。

大学入試委員会は、実務レベルで推進しているだけなのですが、考えや発生に関して重要なサインを出しています。それは、大学入試では人財のアセスメントをすべきで、そのプロフィールは大学に提出されるべきだというものです。

マクレランドは、こうした動きを正しい方向性だとしています。

そして、「学校における成績」だけではなく、「人生における成績(grades)」を理論的かつ実務的に幅広い意味で、その妥当性を確立すべきなのです。

 

◆コンピテンシーをどう測るのか?

では、コンピテンシー(competence)を伝統的な知能テストと対比するアプローチだとするにしても、コンピテンシーをどうテストするのかという問題に行き着くとマクレランドは言います。

ベストなテストは基準サンプリング(criterion sampling)であること:運転できるかどうかは実際に運転させてみるのがいいわけで、ペーパーテストは無意味である。このような考え方でいけば、職務上の能力は予測できる。

テストは個人が学んできたことで変化したことを自省するようにデザインされるべきであること:これは、人間の特性を把握しないと、難しいことである。

性格(characteristic)がどのように発達するのかを公表し、明白にすること:基準となる行動で見ていけば、成績を偽造することは不可能である。

テストは人生における成果を含む、コンピテンシーを評価すべきであること:知能テストをやめてしまい、職務分析に基づく基準サンプリングをやるとすれば、テストが極端に特定化される危険性がある。

 

◆コンピテンシーのテストはどうあるべきか(続き)

テストは反応的(respondent)であると同時に条件反応的(operant)でないといけない。(「オペラント条件付け」とは犬に餌をやり続けると、餌を見ただけでしだいに唾液を出すという実験で有名な条件付けのことです。MIT注)

コンピテンシーに関するテストは、様々な行動成果を一般化させる特性を最大化するオペラント(条件反応的)な思考パターンを測るものであるべきである。つまり、将来のテストは、生涯にわたる成果をコンピテンシーとして特徴づけし、一般化するものでないといけない、とされました。

 

◆コンピテンシーとして考えられるもの

  1. コミュニケーションスキル:重要なのはノンバーバルなコミュニケーションである。この例としてエチオピアでアメリカ人のボランティアが現地の高校でいかに学んだかが取り上げられている。
  2. 耐性、反応の遅さ:たとえば、警察官の場合などのケースを考えてみればよい。(繊細さや鋭さではなく、ストレス耐性や我慢強さを重視している。MIT注)
  3. 適切な目標設定能力:適切で到達可能な、そして現実的な目標を設定しないといけない。この能力は自発的に発揮されないといけない。
  4. 自我の発達/成熟した自我:加齢とともに発達するが、コスタがTAT(絵画投映法)を開発している(これは複数の絵を見せて物語を語らせてパーソナリティを診断するものである。MIT注)

 

【 まとめ 】

生まれつき知性があるとみなされると、テストの役割はそういうものを測ることだということになってしまい、学校ではそれが活用されるようになってしまいます。しかし、数学ができるとしても、それなら、もう学校で伸びる余地などない、むしろ低い部分を伸ばしてやることが必要なことだ、とマクレランドは指摘しています。

到達度合に関するプロフィールは、入学時だけではなく、教師や経営者、学生本人にもフィードバックされるべきです。テストの結果は、学生を助け、教師の教え方を再構築するための道具になるべきなのです。

マクレランドは生涯にわたって成功するかどうかをアセスメントし、それをプロフィールとして描く試験・テストを開発すべきだとまとめています。

 

MIT注:マクレランドの論文には外交官の事例は出てきませんでした。コンピテンシーの例は4つ確認できました。また、どのようにテストすべきかについては6点の指摘がありました。

 

キャッペリのタレントマネジメント論

ピーター・キャッペリは2008年、ハーバード・ビジネス・レビューで、「21世紀に向けたタレントマネジメント」と題する論文を発表している。キャッペリのこの論文は米国のタレントマネジメント実務にかなり強い影響を及ぼしている。たとえば、ASTDは2009年、タレントマネジメントに関するガイドラインを発表しているが、その基本的な考え方はエドワード・ローラーと、このキャッペリになっている。

 

今日、活用されているタレントマネジメントのプロセスはどれも50年前に開発されたもので、そろそろ新しいモデルにすべき時期に来ている。

 

タレントマネジメントにおける失敗は、現代の組織において経営陣にとり、現在進行中の痛みの源泉となっている。過去の世代を超えて、タレントマネジメントの実践は、とりわけ米国において、ますます機能しなくなってしまった。大手企業は、有能な人材(=Talent)の余剰から、人材の不足へと傾き、さらに、その傾向を強めている。

 

本音のところでは、タレントマネジメントは単に人的資本に対するニーズとして期待するという問題に過ぎず、そのニーズを満たすために計画に乗り出すということである。このような取り組みに対する最近の反応は、二極化している。

第1は、最も共通化していることだが、何もしないことで、そのニーズを全く期待せず、また何らの計画も持たないことだ。要するに、タレントマネジメントなど無意味ということになる。このような受け身なアプローチは、圧倒的に、人員を外から調達することになり、今となっては行き詰ってしまっている。また、人材の余剰が浸食してしまうことにもなる。

第2は、大手の、古くからの企業の中でだけ共通するもので、複雑で、1950年代からの官僚的モデルで、サクッセッションプラニングという遺産、過去の遺物ともいうべき仕組みが出来上がっており、ビジネス上は非常に予測可能になったものの、今やうまくいかなくなっている。それは、不正確で、変化の激しい環境にあってコスト高になっているという問題も抱えている。

 

内部育成は、1950年代では規範となっていて当然視されていた。そして、あらゆるマネジメント開発の実践として、今日では新鮮に見られているが、エグゼクティブ・コーチング、360°フィードバック、ジョブローテーション、ハイポテンシャルプログラムなどが行われていた。

多少の例外的な企業はあるが、内部人材育成は、1970年代に崩壊してしまった。これは、市場のますますの不透明感から、内部育成が維持できなくなってしまったことが背景にある。事業予測は、経済の減速を予測するものの、失敗し、タレント育成の経路は、時代遅れになってしまった、右肩上がりの成長があるという前提の条件が崩れ、仕組みが維持できなくなってしまった。

過剰供給のマネジャーという問題は、ホワイトカラーに対してはレイオフしないということではあったところなのだが、やがて企業という船にそうは言ってはおられなくなった。1980年代初めの景気後退の急激な局面では、ホワイトカラーにもレイオフが及び、終身雇用は終焉し、人材を育成した多くの実践的取り組みやスタッフそのものを取り除くことにもなった。その後は、先駆けてポジション(職位)を減らすようになり、とりわけミドルマネジメント層がその対象になった。組織における序列を確保するためにプログラムは維持された。

 

老舗企業である、ペプシコやGEは、現在でもなお、育成に投資しているが、「アカデミー・カンパニー(学校的企業)」として知られるようになった。そこから多くの人材が他社に移っていった。一方、多くの企業は1980年代、コスト削減に迫られ、リストラを余儀なくされてしまった。

 

2000年以降、ユニリーバのインド法人はオペレーションにおいて問題に直面した。これは1つの事例である。1950年代以来、モデルとなる雇い主となり、人材の育成に積極的な企業として知られていたが、組織は2001年以降の景気後退の局面で、事業の衰退が起こり、急速にトップ層に関するコストが重くのしかかってしまうようになり、行き詰ってしまった。その潤沢なパイプラインは、2004年において1400もの、十分に訓練されたマネジャーに担われ、2000年からは業績が27%アップした。方や、実際には、マネジャーへの需要はなくなってしまった。ユニリーバには当時、レイオフを回避するという暗黙の約束があり、これは企業が他の国際的なオペレーションにおいてポストを探してやることを意味していた。

 

伝統的な育成に代替するものとして、外部からの調達は、1990年代の初め頃、魅力的に見え、機能していた。また、主要な基準ともいえるものだった。というのも、組織がレイオフされた人材の巨大なプールの上に描かれているとさえいえることができたからである。しかしながら、経済が成長すると、企業はますます人材を外部から採用するし、惹き止めの問題も生じてくる。ドアの外に歩いて出ていく労働力の果実を見ていると、雇い主は、人材育成への投資へと回帰するようになった。

医療機器メーカーのCEOは次のように話したことがある。

「どうして我々は、競合他社が我々のために人材を育成してくれるものだろうか? 1990年代半ばまで、主要な企業は、競合他社からよりよい人材を獲得し、その一方でその人材を惹き止めるものだと主張されていた。それは、個人レベルでは望ましい夢かもしれないが、全体としてみれば、不可能なことだ」。

 

1990年代の終わりには、外部からの人材調達は、不可避の限界に直面するようになった。米国は、歴史的な経済拡張期に移行していったからである。企業は、経験のある応募者を惹きつけ、同時に経験のある従業員を引き抜かれていった。外からの調達はますますコスト高になったが、とりわけ、ヘッドハンターを巻き込んでしまうと、そうなった。また、新人が内部昇進でブロックされてしまうと、惹き止めの問題が生じるようになった。適材の惹きつけと引き留めへの挑戦は、経営層がビジネスを考えるうえで関心事の上位になり、今日でもそれは変わらない。

白紙の状態でチャレンジに取り組んでいるということは大半の企業には良い知らせである。しかし、タレントマネジメントのやり方で、実際には(白紙の状態で)やるということはほとんどない。

最近の研究の1つに、例えば、3分の2の米国の従業員が何らの人員計画にないと報告されている。企業への助言は1950年代の実務に戻ってしまっていて、長期間のサクッセッションプランニングの計画を作り上げ、あまりにも将来に向けての、言い換えれば長期的過ぎるキャリアプランを計画するという悪い傾向がある。たとえ、安定的な事業環境と、そうした実践がもはや存在しなくなったタレント経路が存在しないとしても、それではミスマッチが起こってしまうだろう。

 

サクセッションプランニングへの伝統的なアプローチは、何年もかけて発達していくプロセスである。しかし、その期間も、組織のチャート、マネジメントチームは明確に変化していくだろうし、育て上げられた次世代の継承者がうまくいくかもしれない。

重要な空きポストが生じると、企業にとっての候補者がサクセッションプランによって確保されず、職務のニーズをもはや満たさないと結論付けることは稀なことではなく、結局は外部から探すことになる。

そうした結果は、無計画というよりよほどいろいろな意味で悪いことになる。まず、候補者が裏切られたと感じることで、サクセッションプラン(ポストが空けば、内部の誰かがそこに就くという期待)は暗黙の約束を創り出している。次に、候補者を育成する投資が本質的に無駄になることだ。第3には、大概の企業は今や、仕事が変わり、実在者が去っていくたびに毎年、サクセッションプランを更新しなければならないという羽目になる。たとえ、それによって莫大な時間と労力がかかるとしても。実際の問題として、毎年見直しをかけることは非常に実際的である。

 

タレントマネジメントは、それ自身だけでは完結しない。従業員を育成すること、サクセッションプランを創ること、一定の離職率に抑えること、また、その他の戦術的な成果を成し遂げることなどがある。

タレントマネジメントは、本質的にはビジネスは富を創り出す、組織全体の目的を支えるために存在している。富を創り出すことは、タレントマネジメント上の選択に関連させて利益とコストを理解することを要請する。組織人を育成するモデルに固有のコストは、1950年代には全く的外れなものだった。なぜなら、終身雇用の時代においては、あちこちに職を転々とすることは、失敗のサインであり、企業内で人材を育成することが当たり前だった。計画的な配置転換のようなジョブアサインメントのような、育成の仕組みが、深く組み込まれていて、それにかかるコストが問題にされることはなかった。

 

そうしたことはもはや現実ではない。顧客の需要や競合企業の動き、10%にも達する経営層の離職など、今日の火急な変化は、内部育成アプローチをあまりにも遅すぎて、リスキーなものにしてしまった。そして、一方では外部から調達するモデルはあまりにもコスト高で、組織を阻害するようになった。

 

タレントマネジメントの場合と違って、サプライチェーンマネジメントは、1950年代以来、劇的に進歩した。もはや、企業は、莫大な倉庫を持つことは必要なくなった。1980年代以降、企業が設立され、絶えざる洗練化がなされ、ジャストインタイムの製造プロセスやその他のサプライチェーンの変革が需要に応じてより正確に、かつ迅速に製品を供給するようにシフトするようになった。

 

製品の需要を予測することは、人材のニーズを予測することに対比される。最も安く、最も速く、製品を製造することを概算することは、費用対効果のよい人材育成、製造工程の一部をアウトソーシングし、外部化を図ること、世代交代に合わせてタイミングを合わせることと等しいと言える。内部育成の経路を管理することへの挑戦は、いかに従業員が仕事と経験を通じて進歩するかということであり、より迅速化され、ミスマッチを回避するように進展してきた。

 

タレントマネジメントに対する最も革新的なアプローチは、オペレーションとサプライチェーンマネジメントから導出された、4つの原理が活用された。そのうち2つは、需要サイドに向けられたものだ。すなわち、いかに製造と販売をバランスさせるか、また、人材に対する需要を予測するのにリスクを減らすか、ということだった。残る2つは、供給サイドに向けられたものだ。すなわち、いかに育成への取り組みにおける投資効率をいかに上げていくか、また、新たに訓練されたマネジャーを動機付ける機会を一般化する投資をいかに保護するか、である。

原理1:内製か外部調達かのマネジメントリスク

世紀半ばの製造業における主な関心事は、ある部分が欠落していた。人材の不足は、1950年代、1960年代の伝統的なマネジメント育成の仕組みにおける最大の関心事だった。その頃は、すべてのリーダーが内部育成だった。もし企業が、十分なプロジェクトマネジャーを生み出せなかったら、経験のない人が新しい役割に押し込まれ、プロジェクトを諦め、収入をみすみす失ってしまった。予測することは今日以上に容易だったが、完全なものではなかった。

人材不足を避けるには、故意に人材の需要の投影を通り越すしかなかった。プロセスが人材の過剰を創り出してしまったときには、何らかの機会があるまでは、比較的楽をさせて公園のベンチに置くしかなく、いうなれば、倉庫のスペアにしておくほかなかった。組織が人的資本の供給のクローゼットに等しく維持されるということは不合理に見えるが、組織人の時代においては、至って当たり前のことだった。

 

今日、ベンチに腰かけた人材がたくさんいることは、高い投資になりかねない。さらに、ドアの外へ歩いて行ってしまうことにもなりかねない。志のあるエグゼクティブは、ベンチに座っていようと思わないし、そうすべきでもない。さらに悪いことには、ワトソン・ワイアットの研究によると、トレーニングを受けた人々は、それによって習得した新しいスキルを活用する、よりよい機会を求めて去ってしまう、ということが示されている。

 

人材を内部育成することには今もって意義がある。なぜなら、それはコストが安く、障害が少ないからである。しかし、外部調達は、迅速であるし、機敏である。最適なアプローチは、2つを組み合わせていくことである。

 

最初に、人材の需要を正確に予測できるということは諦めるべきだし、長期にわたって、予測することは不可能であるという事実を認識しなければならない。1年当たりの予測のずれが33%にも達したとすれば、留めることなく組織のリストラをせざるを得なくなる。

ダウケミカルは、長期的な予測を諦め、短期間のシミュレーションに切り替えた。経営層の運営は、事業の需要から数年先について要請するようになっており、経営層は、しばしば事業構想を調整するように意思決定している。

 

運営マネジャーは、マネジメントの需要の曖昧さは統合的な部分が巻き込めるコストがどの程度なのかを知っている。しかし、人材を育成するコストはそれよりもはるかに大きいものは何か? 伝統的に、労働力計画は、暗黙のうちに、コストとリスクを想定してきた。つまり、翌年、100人のプログラマーがある部門で必要になるとしたら、10人は多すぎるということになるか、10人足りないということになって、リストラしないといけなくなる。

 

しかしながら、実際、そういうケースは珍しいことだ。1950年代のシミュレーションとの対比では、拡大していくほうが不足する場合よりもリスクが大きい。今や、簡単に労働者は去っていく。低く見積もったとしても、いつでも外部から調達できる。雇い入れのコストはより大きく、また、従業員の能力が不確定だというリスクがある。さらに、引き留めのコストもかかってくる。そこで、内部では90人を育成し、残りを外部から調達するということになる。

 

<内部育成と外部調達のトレードオフを評価する>

  1. 人材の必要とする期間はどの程度か?人材が長く必要とされるなら、内部育成は採算が合うことになる。
  2. 人材を必要とする期間をどれだけ正確に予測できるか? 予測がより不確定であるなら、内部育成のコストもリスクも大きくなる。外部調達するほうが多くなるだろう。
  3. スキルと仕事の階層はあるのか、仕事を覚えるのに相応の能力(コンピテンシー)が必要とはならないのか。あるいは、専門的に育成した役割なのか、コストをかけた投資を必要としないのか。これはとくに機能的な領域で言える。そうだとすれば、人材は内部育成するほうがよいということになる。
  4. 組織の現在の文化を維持することは重要かどうか。とくにシニア層で、外部調達すると、異なる規範や価値観が生じてくる。カルチャーが変わってしまう。組織文化を変えたいというのであれば、外部から人材を調達することになるだろう。時には、予期せざる方法で。

 

これらの設問に対する回答は、同じ会社で職能や職務などによって違ってくる。たとえば、低層部は容易に、また安いということで、外部から人材を調達するかもしれない。というのも、要求される能力(コンピテンシー)が高度のものではなく、比較的抑えめに需要を見積もることがコストになってくるからである。より高いスキルが必要な仕事では、需要を低く見積もることのコストがより一層高くなり、外部調達には多くの費用を要することになるし、新しく雇いれる人材の統合やミスフィットなどのリスクも大きくなってく

る。

 

原理2:人材の需要における不確定性への適合

 

もし必要な原材料を大量に購入し、倉庫に貯えておけるのであれば、たぶん、年間に必要な材料を調達し、製造し、年間の需要も予測できるということになる。しかし、しばしば少ない分量ごとに購入するとすれば、需要を予測する必要はなくなるだろう。同じことが人材調達に関しても当てはまる。

組織に新しいクラスの候補者を招くという問題を考えてみよう。大学から直接雇い入れる企業では、候補者全体としてはある時期においては貧弱なものになってしまう。オリエンテーションを行なうとしても、トレーニングクラスで時間をある程度割き、その後に、育成的な役割に移行する。100人の人をトレーニングするには、100人のトレーニング役の人材が必要になる。これは、プレッシャーになるし、コストを切り下げ、再組織化に向けたチャレンジである。

 

しかし、多くの大学卒業生は、卒後すぐに働きたいと思っているわけではない。6月に半分を確保し、半分を9月に確保することは難しくない。そのため、50人ずつのクラスでトレーニングをすることが可能になる。

 

原理3 いかに人材育成における投資採算を向上させるか?

 

内部人材育成は、マネジメント人材を創り出す唯一の方法だったとき、企業は、そのためのコストがどの程度のものか、企業は考えてみるということもなかった。コストは、事業運営上、不可欠のコストだった。しかし、今日の人材プールを小さくしている同じダイナミクスが企業にとっての機会となり、従業員をトレーニングするコストを小さくし、それによって投資採算を向上させるようになった。それはまさにR&Dにおける取り組みと同じである。

 

おそらく最も新しいアプローチは、従業員を、コストをシェアするものとして獲得することだろう。開放的な市場で経験に支出するとすれば、従業員は、その育成の主要な利益になる。すなわち、貢献するように要求すれば利にかなったものとなる。

米国の法では時間給の労働者が現在の仕事で要求されるトレーニングについてコストを負担させることを禁じている。しかし、時間給の労働者でも、将来の役割に支援するものであれば、この限りではない。

 

人々は、自発的にプロジェクトを学ぶためにコストを負担するし、通常の仕事に付加価値を添えることを意味する。候補者には多かれ少なかれ、通常の仕事をしていては、その報酬も増えていかないという想定があり、無報酬のプロジェクトにも参加するし、小さくない投資をする。

ピッツバーグにあるPNC財務局はいくつかの企業体の1つで、リーダーシップチームのプロジェクトのボランティアがある。時には、現在の職能領域の外の場合は禁じられているが。このような仕組みで、リーダーの経験を積んで、経験を拡げ、よい職業的な接点となっている。その経験はその後、役立つもので、報酬も増え、価値ある時間となる。

 

雇い主は、従業員をより引き留めることによって育成のための投資からペイオフを増やして実験するようになっている。少なくとも、20%の米国の雇い主は、従業員に訓練や育成的な経験を受けさせ、退職してしまってもそのコストが本人に払い戻されるという仕組みになっている。

 

より興味深い実践は、従業員に、辞めた後でも比較的小さな投資を行ない、繋ぎ止めておくというものだ。デロイトは、ファームで重要な育成を行なった、優秀な元従業員に資格を更新するための費用を負担している。これらの個人は、再び仕事に復帰することが期待しており、そのためのつながりを持ち続ける。

 

原理4 いかに雇い主と従業員をバランスさせる投資を保存するか?

 

人材のポータビリティの下落傾向は、もちろん、マネジメント開発の果実が腐りやすく、内部育成モデルの全盛期にもないということだ。それは、個人と仕事をマッチさせる、管理者と経営者がキャリア上の意思決定をするものになってきている。組織人の時代では、人材は長期的な組織の人材ニーズに合致するようにしていればよかった。従業員には選択肢はなかった。新しいポジションを拒むことは、キャリアを終わらせて移ることに相当した。

 

今日、従業員は、当然のことだが、自由にピックアップできるし、去ることもできる。有能な人材のほとんどは、最も自由である。引き留めの努力をしているのは、80%もの企業にもなるが、内部のジョブ・ボードに内部従業員が簡単に応募できるようにしている。ダウケミカルはその例である。

 

これらの申し合わせが効果的にキャリアマネジメントの問題を改めて従業員に振り向けている。結果として、雇い主は、内部の人材にあまりコントロールをかけないようになった。しかも、米国の場合、内部的な葛藤が増大した。半数以上の米国企業は、監督者が新しいポジションを求めて移っていくことを許容している。

 

 

(M-IT注)

キャッペリの論文を読むと、米国にかつては終身雇用があったとされている。そして、いろいろな経緯を経て、労働者が自由に他の企業のポストがあれば移っていくということに企業がむしろ前向きになるようになったという。

日本ではキャッペリの指摘を受ければ、まだ多くの企業は過渡期にあると言える。キャリアの問題を抜本から考えさせる論文でした。

なお、適宜、論文は冗長な部分をカットしています。

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